タモリという「場」


今回も医療とはかけ離れた?話題です。
日本のお昼からタモリさんが消えて1か月近くになります。何というかポッカリ穴があいたというか、変な気分ですね。タモリさんに関して色々考えてみますと、「タモリ」という1人のタレントとしては分類できないんですよ。うまく言えませんが、ある意味での「現象」というか、「場」のような・・ 何が言いたいかというと、「いいとも」のタモリさんは、全く自分の個性を出さないのです。敢えて言うなら自己を消す・あるいは滅しているように思えるのです。その点が他の司会タレントと一線を画しています。
そんなことを悶々と考えていたら、私の恩師・R先生のブログに興味深い記事がありました。 R先生、ブログの一部 拝借しますね。

なかなか興味深い考察である.

釈 安田登先生の本に能には近代的自我が邪魔だと書いてあって、それはすごく面白い話だなと思ったんです。能はいわば近代的自我の成立以前の身体技法からですかね?
内田 主体的には身体操作をしようと思うと動けなくなっちゃうんです。
釈 でも、歌舞伎は近代自我があってもできそうな気がしますね。
内田 あれは明らかに近代的自我がありますね。だって落語には『中村仲蔵』、『淀五郎』とか芝居噺があって、役づくりで苦悩する噺があるじゃないですか。能楽師が役づくりで苦悩するなんて、あり得ませんから。
釈 やっぱりどんどん自分を消していかないと動けないようなところがあるんですか?
内田 動けないんですよ。消すというか受動的にならないと。
釈 主体的じゃなくて、受け身。
内田 感度を上げていかないと動きの筋道がわからない。感度を上げると地謡や囃子に引っ張られ、あるいは目付柱に引っ張られ、作り物に引っ張られて、動線が出てくる。能舞台にあるものが次々とさまざまな発信をする。そのシグナルにも濃淡があり、遅速があるから、その隙間をたどって進むと、動きが自然に出てくる。
釈 曲によって、濃淡は変化するんですか?
内田 変化しますね。濃淡も緩急もどんどん変化する。そういうポリフォニックな空間の中に唯一無二の、これしかないという最適動線が浮かび上がってくる。それが行くべき道順、なすべき所作を指示する。自分で選択するんじゃなくて、舞台に教えてもらう。そういう感じですね。

内田樹・釈徹宗著『聖地巡礼』275〜276頁
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